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教育に対する考え方


大善か小善か


歴史上の偉大なリーダーの生い立ちを調べてみると、親が厳しく育てたおかげで、立派な人物に成長したというケースが多く見られます。ところが、反対に甘やかされて育てられ、その結果世間知らずで依存心が高く自立できない"どら息子"になってしまったということもよく聞きます。一見、厳しすぎると思われる子どもの躾(しつけ)や教育は、長期的にみると、結局本人のためになることが多いのです。「獅子の子落し」の格言通り、一人前に育てるには、愛情に裏打ちされた厳しさが必要といえそうです。


人の役に立つという「善」には2種類あります。大善と小善です。そもそも善とは、正しいこと、よいことを行うことです。ところが、善は善でも小善は、「よかれ」と思ってやったことでも、結局はその人のためにはならないという意味です。小善の本質を理解するには、野鴨(のがも)のエピソードがわかりやすいといえます。


むかし、むかし、たいへん優しいお婆さんがある湖のほとりに住んでいました。庭には、初冬になると野鴨がやってきました。野生の鴨というのは、越冬のため何万キロもの距離を移動します。野鴨が"渡り鳥"といわれる所以です。お婆さんは、毎年長距離を飛来するのはあまりに哀れと思い、野鴨にエサをやり始めたのです。すると、鴨たちは喜んで、庭に居つくようになりました。ところが、数年後お婆さんが突然病気で死んでしまったのです。鴨たちもみな死んでしまいました。気づくと、"渡り鳥"という本来の野生心を失い、鴨たちは自分でどうやってエサを探し出すのか忘れてしまっていたのです。


小善の特徴は、短絡的な視野でしか物事をとらえることができない点です。エサを与えるのが野鴨へのやさしさと思いがちですが、その行為が鴨を死に追いやってしまったのです。「よい行い(善)」をしたつもりが、実はそれはまったく「善」ではなく、「大きな過ち(悪)」だったと後になって気づくのです。やさしさはやさしさでも、人を駄目にする甘やかしが命取りとなるように、小善は最後には大悪に直結するのです。


一方、大善は非情に映ることがあります。時として厳しすぎると感じるからです。野鴨にエサを与えるのは小善で、エサをやらず放っておくのは一見冷たいようですが、実はこれこそ大善なのです。一見「いくら何でもあんまりだ、ひどい仕打ちだ」と思える大善も、長い目で見ると器量をつくり、人を育てることにつながるのです。


スポーツの世界では、全国大会で優勝するようなチームの監督やコーチの指導法は厳しくて当たり前です。シドニー五輪金メダリスト、マラソン選手の高橋尚子さんが、「監督、もう限界です!これ以上走れないです」と訴えても、小出義雄監督は「大丈夫。これからだよ」とさらに苛酷な練習メニューを課し、それをやらせたそうです。


やさしさが心地よさであってはなりません。人は大事にしなければなりませんが、野鴨を飼い慣らすような扱いだけは絶対してはならないということです。野鴨を飼い慣らすことは簡単です。しかし、いったん馴らした鴨を野性に返すことはできないのです。馴らされた鴨はもはやどこにも飛んで行くことは出来ない。ビジネスには飼鴨ではなく、野鴨が必要なのです。人をダメにするやさしさ、人を鍛える厳しさ、何が本当に大事なことかという大局的な考えが求められるのです。



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